関東大震災について
関東大震災は単純な地震ではなかったのです。
関東大震災について
今月の話題は関東地震です。
1923年大正12年9月1日マグニチュード7.9の大地震が南関東地域を襲いました。
日本列島には太平洋の海底を作る太平洋プレートが東から、南からフィリピン海プレートがもぐりこんでいます。
海洋プレートが潜り込むと陸側のプレート(北アメリカプレート・ユーラシアプレート)との間に摩擦が起き、地震が発生します。
フィリピン海プレートにはユーラシアプレートへの南海トラフという潜り込みが海溝となっており、北側には北アメリカプレートとの間に相模トラフという海溝があります。
伊豆半島のところで、海溝はそこだけとがった形になっています。これは伊豆半島がフィリピン海プレート上の大きな島だったことが関係しています。
もともとはまっすぐの海溝だったものが大きな島のためにそこだけ潜り込みができなくなり
海溝の潜り込み口を北へ追いやり、島は日本列島にぶつかり繋がって伊豆半島になったという経緯があります。
このため陸地の下に潜り込んだプレート下で地震が起こるようになり、地震領域が陸地の下に形成されました。
このようにして直下型のマグニチュード8クラスの地震が起こるようになりました。
余震について
関東地震はマグニチュード7クラスの余震の数が多いのも特徴です。
大正関東地震の時は6つの余震が観測されています。
①9/1 12:01(東京湾北部M7.2)
②9/1 12:03(山梨県東部M7.3)
③9/1 12:48 (東京湾東部M7.1)
④9/2 11:46(勝浦沖M7.6)
⑤9/2 18:27(九十九里沖M7.1)
⑥1924 1/15(丹沢M7.3) です。
本震は最初の断層の滑りが小田原直下でおこり、
約10秒から15秒後に2度目の断層の滑りが三浦半島の直下で起こった双子地震との説が有力です。
本震は11時58分32秒から起こり始め、12時01分に東京湾北部でM7.2の一つ目の余震、12時03分に山梨で二つ目のM7.1の余震が起こっています。
これら双子の地震と2つの余震が次々と関東を襲ったのが関東地震でした。
長さ130キロ幅70キロの断層が平均2.1Mのずれを起こしたと考えられています。
当時の地震計が最初の地震で振り切れてしまったため後からの余震が記録できず、3つの地震があったことの解明が遅れていました。
地震以外での被害について
前日九州の有明海にあった台風が日本海沿いに進み、当日は能登半島に熱帯低気圧としてありました。
そのため関東では風速10mの南風が強く吹き、発生した火災は風にあおられて燃え広がりました。
本所の被覆廠跡地の空き地(ひふくしょう陸軍制服工場)では火災旋風が発生し、避難していた4万5千人から5万人が逃げられず亡くなりました。東京の火災が鎮火したのは9月3日の午後14時ころといわれています。
この火災では東京市内の64%が消失しました。
日本橋魚河岸はこの震災で壊滅し、築地へと移転しています。
小田原と熱海の間を走る熱海線根府川駅にちょうど入線しかけた列車が、地滑りによる土石流で根府川駅舎、ホームもろとも海側に転覆し最後部の2両を残してすべて海中に転落しました。この事故により乗客駅員112人が亡くなりました。
根府川集落も川の上流で発生した山崩れによる土石流に飲み込まれています。相模湾沿岸と伊豆半島にかけては津波が襲い、200人から300人の人が亡くなっています。死者行方不明者14万人(一説では10万5千人)と言われています。